学生の頃、歴史はあまり好きでありませんでした。
何か、ただの暗記物のような気がして。
最近、哲学史を勉強し始めました。
以前から、哲学は、ことある毎に個人的にブームの波が少し来ては引いていき、そんな繰り返しでした。
いつか、しっかり哲学を学びたいと思いながら。
そして、最近、哲学史・宗教史などの歴史の本を読み始めています。
なぜ、哲学でなく、哲学史なのか?
それは、読む動機の変化がありました。
哲学を勉強するとき、以前の僕は、過去の偉人から何か役に立つ手法を学びたくて本を読んでいました。
まるで、現代に通じる魔法を探すかのように。
でも、哲学が現代も続いていることから解るように、絶対的な真理というものは解明されていません。
つまり、哲学の本全て読んだところで、そんな魔法は学べないと言う事です。
では、なぜ読むのか?
それは、「人類の歴史のパターンを超えるため」
哲学史は、その時代・時代の背景があり、その文脈の中で、人類はどういう風景を見て、どう考えてきたのか?という変遷です。
つまり、その数千年の歴史の中には、人類が歩んできたパターンがあります。
そのパターンを知る事。
言い換えるなら、人類数千年の靴を履くこと
それも表面的でなく、その思想の深層には、どんな肯定的意図があったのか?
今、おそらく人類は史上もっとも複雑かつ、ある意味絶望的な局面にさしかかっています。
では、我々は、何故、この時代を選んで生まれてきたのか?
そこには、どんな意味があるのか?
そして、今の時代、たくさんのリソースが溢れています。
歴史もその1つです。
歴史は、人類のパターンをさらけ出してくれます。
そのパターンを皆で超えませんか?
この時代に生まれてきた意味を噛みしめながら。
あなたの繰り返しているパターンは何ですか?
一緒に超えませんか?
それぞれの人が繰り返すパターンには、かならず肯定的意図が在ります。
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