「持続可能な〇〇」という言葉をよく耳にしたり、口にするようになったのは、ここ数年かと思います。
「持続可能な社会の為に…」
「この活動は持続可能かどうか?…」
最近、ふと思った事。
この「持続可能」という言葉の罠。
この「持続可能」という言葉は、いつの間にか表面上の「継続可能かどうか」
という言葉におきかわれていないだろうか?と思うようになりました。
どういう事かと言うと…
何か物事を起こしたり、活動をするとき、
この「持続可能かどうか?」という見方から
続けるために、無理をしちゃいけない。
一人で頑張っちゃいけない。
借金してまでやることでない。
いつの間にか今でなく、次の事を考える事が多くなって
無理をしないという制限をかけていませんか?
そもそも無理ってなんですか?
頑張りすぎたら無理なんですか?
借金を作ったら、無理なんでしょうか?
むしろ、その時の衝動、心の奥底の叫びに素直に従わないこと、これこそが無理なんじゃないでしょうか?
持続可能とは…
瞬間・瞬間の純粋意欲から(怖れや不安からでなく)生じる創発と破壊を、その時その時を無駄にせず繰り返すことなんじゃないでしょうか?
それは、過去の延長でも積み上げでもないんだとと思ったりします。
身体中の細胞が生き死にを繰り返しながら、我々の身体が生命を紡いでいくように……
今日、あなたには、どんな創発と破壊が起こるのでしょう?
そして、それは、どこから起こしますか?