5/8に、実験的な場、その名の通り「実験場」を開きます。
これは、対話を通しながら、新しいコンフリクト解決を生みだしていく場になります。
「同じ」から観るとは?
我々は、対立を見るときに、両者の違いにフォーカスします。
その作業はもちろん、重要。両者の言い分、価値観などにどんな違いがあるのか?
それによって、両者に対角線が引かれるのです。
この作業は、まるで折り紙の角と角を合わせて折ることで、両点を区分している折り線(対角線)が浮き出てくるのと一緒です。
ある意味、折り紙を世界全体と捉えるなら、世界を二分割する作業と言えるでしょう。
では、その折り紙は、世界全体ですか?
違いますよね。
これは、世界を折り紙という2次元の面で考えているにすぎません。
つまり、折り紙の面という共通したフレームがあることで、「対立」が起きているとも言えるのです。
これが、知らず知らずに持ち込んでいる前提というもの。
ここに気づくには、「違う」にフォーカスするだけでなく、「同じ」に気づく事が大事になります。
例えば、今起きているソ連・ウクライナ情勢。
違いについては、省きますが「同じ」は何でしょう?
いくつもの折り紙(前提)がありますが、ひとつは「国家が大事」というもの。
そこに気づくと、見えている景色が変わって来ます。
では、「国家」を捨てて、「アナキズム」に目覚めればいいいのか?
この考えは、「国家」と「アナキズム」という新たな対角線を引いたことにもなります。
でも、対角線をたくさんひいただけではダメ。
それは、新たな折り紙をつくったにすぎないから。
言い方を変えると、二元論を超えてないのです。
では、どうするのか?
Aという意見とBという意見があります。
その両者の違いを詳しく見ていくと、両者の「違い」が浮き彫りになってきます。
そして、表面の事象だけでなく、その深層にある両者の肯定的意図を探っていくと、じつは、「同じ」肯定的意図に当たることが多かったりします。
そこで、この「同じ」肯定的意図の折り紙は何か?知らず知らずに持ち込んでいる前提はないか?に気づくとのです。
この前提をCとするなら。当然非CであるDが存在します。
これを繰りかえすなら、CとDの「同じ」Eがあって、、、、と続くのですが。
ここから、CとDの対立議論をするのではありません。
Cか?Dか?という二項対立「ジレンマ」から、Cか?Dか? →CであってDでもあるのか? →CでもDでもないのか?
という「テトラレンマ」へと。
これが、折り紙を超えた世界へつながるということ。
もう混乱してきましたね。
そこは言語だけでは、難しいかもしれません。
イメージやソマティック・モデルといったチャンネルが必要になるでしょう。
様々な知恵を尽くし、今、必要とされるもの
対話から体験を通して実験する場です。