先日、読んだ「勉強の哲学〜来たるべきバカのために〜」という本。
この本では、皆さんが幼い頃から慣れ親しんでる(?)「勉強」というものについて、論じています。
この本を象徴する印象的なフレーズが
「勉強とは獲得でなく、喪失である。」
さらに
「勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしい。
勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する。自己破壊である。
言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。」
と続きます。
一文に凝縮すると
「勉強とは自己破壊」
これはどういうことでしょうか?
われわれは、あらたな分野の勉強を始めると、その文脈の違いに戸惑います。
その分野独特の言い回しがあり、文化があり、まるで外国語を学んでいるかのようです。
それは、非常に心地悪いこと。
そこで、どうするか?
我々は、その分野の言語を自分の文脈の言語に言い換え始めます。
「あっ、これは以前学んだ○○と同じようなもの。」
こうすることで、なんとか心地悪さを解消し、従来の知識に上積みしていくのです。
でも、これでは、永遠にその分野の本質には迫れません。
英語が得意な人は英語は、日本語に変換せずに英語のまま理解するように、その分野の文脈のまま学ぶ必要があるのです。
これは、まさに今までの自己を破壊していくことです。
一方、子供は、もともと過去の自己を保持しません。
今を生きています。
だから、破壊することなく、日々スポンジが水を吸うように学習していきます。
一方で、成人は、勉強に限らず、今までの経験や知識は実は、変化することの足かせになります。
ついつい、我々は過去の経験という安全地帯に入り込み、そこから物事を観ようとします。
それでは、何も変わりません。
まずは、すべてを放り投げて飛びこんでみる。
もう、積み上げるのをやめてみる。
しばらく、その心地悪さとともにいませんか?