以前、僕は Face bookに以下の投稿をしました。
【修行・苦行の螺旋から、降ります】
人は常に成長を求めます。現状に満足せずに、、、というより「今を生きずに」
僕は、つい最近までそうでした。と言うより今も、「今を生きよう」としている段階です。
今まで、ただ先を見ることで、何かを身につけることで先に進めると思っていました。
でも「何かを学ぶこと」は、同時に「自分は何も知らないことを知る」ことでもあります。
だから、修行し続ける。いつまで?
死ぬまで。
いや、その想いは、魂が生まれ変わっても、ただ繰り返すだけ。
キリがない。
「いつまで学びますか?」
修行・苦行の螺旋からは何も生まれない。
僕は、その螺旋から降りることにしました。
「もうすでに全てを知っている。あとは思い出すだけ。」思い出すための学びはしていくでしょう。でも、それは目的じゃない。
「自分が苦行の螺旋から降りないことから、発生するものは、人を苦行の螺旋に巻き込むだけ」
だから、降ります。
僕は、皆さんを幸せにしたいだけです。その螺旋から降りるお手伝いをさせて頂きます。
この宣言、結構な反響があって、今、インタビューをしていると、
「これを読んで修行の螺旋から降りようと思った。でも、螺旋を降りられない。」
という声を数人の方から頂きました。
では、僕は学び続けていないのか?
学び続けています。
でも、以前のような、何かに追い立てるように、外に正解を求める修行はやめました。
それは、学ぶというより、思い出す作業
これは、有名な「両界曼荼羅」
仏教の曼荼羅のうち、密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現してるとされます。
2つの曼荼羅「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」の総称で
一方が金剛界曼荼羅:
大日如来の「智の世界」を表し、人が仏に至る方法と、悟りへの道が示されているとされます。
そして、もう一方、胎蔵曼荼羅:
大日如来の「理の世界」を表し、宇宙そのものであるであるとされます。
この2つが必ずセットで、配置されます。
どういうことか?
難しいですよね。
少し、視点を変えて、「覚醒の真実」という本の中の中のこれと関連する話を紹介しましょう。
著者の清水友邦氏は著書の中で、2つの覚醒への道を示しています。
オニオン・ピーリング・ヴィジョンとロータス・ヴィジョン。
オニオン・ピーリング・ヴィジョンとは、その名の通り、玉ねぎの皮むき。
日々の修行を玉ねぎの皮むきのように中心の心理へ向かい繰り返す。
金剛界曼荼羅の世界観。
ロータス(蓮)・ヴィジョンとは、
「覚醒・気づき」は誰もが生まれた時から自然にそなわっている自己の本質であるというもの
胎蔵曼荼羅の世界観
この2つのビジョン片側だけでは「気づき」は生まれない。
セットなのです。
この感覚。
もともとあるもののために、玉ねぎの皮をむく。
でも、それは決して苦行の螺旋では無い
なぜなら、その答えは外でなく、すでに内にもっているものだから
あなたの内なる鍵を一緒に見つけませんか?
6/10(土)〜11(日)レジリエンス・ジャーニー〜ナスルディンの鍵を探す〜開催
https://www.facebook.com/events/1872201473052761/